真庭市地域おこし協力隊

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北房の養蚕を知ろう! 準備②中津井の兼業養蚕家さんの話

 18才まで家で昔、養蚕をしていたという中津井の方(現在88才)のお宅に行き、話を聞かせていただきました。
 今回は中津井の平田地区での養蚕を中心に聞きました!

 というのも、中津井は製糸会社があったり、養蚕の共同飼育場があったりと北房の中でも特に力を入れて生産していたという情報が入ったのです。
 これはぜひ当時の話を聞いてみたいと相談したところ、いい人がいるんだと紹介していただきました。


【中津井平田地区の養蚕】
 中津井の養蚕は、なかつい陣屋が代官所だったころに、代官様が産業復興の一つとして養蚕を取り入れたのが始まりだそうです。

  昭和12年頃が養蚕のピークで、住宅が小さな人や家業が他にあるような人(呉服屋・饅頭屋など)以外は、養蚕をしていたんだそうです。そのような家で養蚕をしていない人も、養蚕業が忙しい時期には桑の株をそろえたり、桑の収穫をしたりと手伝いに行っていたようです。中津井平田地区の人たちはみんな何かしら養蚕に関わっていたらしいです!
(一番上の写真が現在の平田地区の写真です。とってもきれい!)

 この中津井平田地区には当時35件の家があり、養蚕をしていない家は4・5件ほどしかなかったそうです。地区の7分の6の家が養蚕をしていたんですね。

  上房郡史によると、明治44年時は上水田がぶっちぎりで生産をしていたし、井殿や野々倉や井尾(上水田の地区)などが昭和にもたくさんの養蚕家がいたと聞くんです。中津井の工場跡などをみると力を入れていたというのはよくわかりますし、中津井と上水田のどっちが多かったんでしょう?
 生産量とかの記録が出てきたらテンション上がりますね!


【養蚕をしていて一番大変だったこと】
  なんといっても、霜が降って畑に飢えている桑の葉が枯れていた時が一番大変だったそうです。
 山に生えている桑をとって蚕に与えても食べてくれず、寒さと飢えで蚕がどんどん死んでいったんだそうです。周りの桑も霜にやられていたため、米子まで大八車を引いて歩きで桑を取りに行ったらしいです。

 霜対策として、ラッパを高台から吹いて次の日に霜が降ることを伝えていたようです。霜が降りることがわかったら、桑の木に菰をかけて、葉っぱが弱るのを防いでいたそうです。


 蚕は意外とグルメなんです。
 桑しか食べない昆虫なんですけど、その桑にこだわりがあるんです。ちゃんと栄養がある桑じゃないと食べてくれなくて、その辺に生えているような桑は受け付けてくれないんだそうです。
 だから、桑畑を昔の人たちは作って、野菜と同じように肥やしを入れるなどして、桑の葉の栄養管理にも気を配っていたのです。

【平田の共同飼育場】
 中津井の平田には蚕の共同飼育場があったそうです。
 現在は取り壊されて、憩いの場になっていました。

 この共同飼育場で、蚕の卵や幼虫の取引をしていたようです。
 卵は蚕種紙(蚕卵紙)という紙の上に一定の数量がつけられて販売されていました。この紙の枚数か、グラム数で取引が行われていたそうです。

 今回取材に行ったところの養蚕家さんは蚕種紙を2枚ぐらい仕入れており、多いところでは6枚ぐらい仕入れていたそうです。

  共同飼育場は12畳くらいの部屋に責任者が2人いて、営業の人が何人かいたそうです。
  施設の地下には卵から孵化させるための炉が3か所あり、桑の貯蔵場もあったそうです。



【養蚕といったらこの映画 『あゝ野麦峠』】
 この映画は見るべきだと強く推されました!是非見てみようと思います。
 久米南町の図書館にあるようなので借りて、またどんな内容だったかは記事でお伝えしますね!



 今回もたくさんお話が聞けて、うれしかったです!  
 その他のことも手書きレポートにまとめているので見てみてください!


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