北房の養蚕を知ろう! 準備①上水田の養蚕指導員さんの話
6月26日に北房ふるさとセンターで開催する「北房の養蚕を知ろう!」に向けて準備をしています。
上水田の方で養蚕の指導員をしていたという方のお宅に伺い指導員のお仕事や蚕の飼い方、当時の養蚕についてお話を聞いてきました。
講座がおもしろくなりそうなネタをたくさん仕入れていきました。
上の写真が蚕が作る繭です。
この繭は、昭和12年頃の品評会に出されていた蚕の繭で、この状態で養蚕の指導員は中に入っているのがオスかメスか判別できるそうです!
【蚕って何?養蚕って何?】
蚕とは蚕蛾(かいこが)のことです。
幼虫からさなぎになる際に作られる繭を茹でで紡ぐことで絹糸を作ることができます。
絹糸を量産するために、蚕を家畜として飼うことを「養蚕」といいます。多くは農家が兼業で、春・夏・秋・晩秋の年4回ほど行われていました。
幼虫は生まれてから4回の脱皮をし、繭を作り始めます。養蚕家は卵からは仕入れず、2回目の脱皮が終わった後から仕入れ、繭を回収(収繭)して出荷するまでをしていました。
養蚕はかつて日本の一大産業でもありました。
【養蚕の歴史】
蚕は人間が糸をとるために、長い年数をかけて丈夫で長い糸を出すように改良されていきました。
養蚕の起源は中国で、日本には弥生時代に稲作と一緒に秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えました。
しかし、日本で養蚕業が各地で盛んにされるようになったのは江戸時代からです。
また、養蚕国としてアメリカに絹をたくさん輸出できるようになったのは明治以降でした。
そして、養蚕業が特に盛んだった時期は大正~昭和15年だといわれています。
――――ここからが聞いてきた話――――
【蚕の飼い方】
蚕は文字の通り、天候や環境に非常に左右される虫です。
幼虫は胃袋以外の臓器はないため、曰く「桑の葉(蚕の唯一のエサ)を与えて、温度管理をちゃんとすればいいから、飼うだけなら誰にでもできる」ということです。
寒くても、暑くても蚕は生きていくことができず、常に温度を20℃以上30℃以下に保たなくてはいけません。湿度も重要で、80~90%を維持する必要がありました。
そのため、寒い日には練炭を炊たいていました。練炭は人間にも蚕にも有毒なガスを発生させるため、換気のしやすい環境で飼う必要がありました。そして、暑い日は桑の葉を蚕に覆いかぶせるようにたくさん与えることで日陰を作ってやることでしのいでいました。現在飼うとしたら、エアコンで微調整すればいいですね。
上の写真は養蚕用の乾湿計。これを使って蚕の成長具合に合わせた温度管理をしていた。
蚕は2000年以上家畜として改良され続けていたので、人間にお世話をされないと生きていくことはできません。
お腹が減ってもろくに歩けず、人間がえさを与えるまで動きません。
野生に返そうと野外の桑の木に蚕を放しても生きていくことができません。
蛾の姿になっても、羽の大きさのわりに腹が大きく、重すぎるためにうまく飛ぶことができません。
羽を動かす筋力もなくなってしまっています。
先祖代々からの家畜経験から、野外を飛んで仲間やエサ、卵を産む場所を探す必要がなくなっていったための進化なのです。 そのため、丁重に扱っていかなければなりません。
上の写真が桑の木。生まれてすぐの頃はこのくらいの新芽を食べさせる。
【意外な注意すべきこと】
麹菌に弱いため、脱皮を2回経験するまではみそ汁や醤油、甘酒などを食べて接してはだめ。死にます。
たばこのニコチンで酔ってしまうため、たばこを吸ってから接してはだめ。死にます。
水分量が80%以上の新鮮な桑の葉をでなければ食べない。
脱皮をする前には、体を持ち上げて桑を食べない日がある(眠っていて、4回ある)
【養蚕指導員の仕事について】
北房中や高梁の方の養蚕家のところに行き、どのように飼えばいいかの指導をして回っていたそうです。
夜中、大八車を引いて農家から繭を仕入れて、糸繰する人におろしていました。
繭の取引は信用で成り立っており、酒を交わして信用を構築していました。毎日のようにいろんな養蚕家の人とお酒を飲んでいたそうです。
しかし、高く繭を飼ってくれるところが養蚕家にとっては正義だから、よく浮気をされていたらしいです。
北房では昭和12年が養蚕のピークだったようです。
そのころ約200件弱の家が養蚕をしていたらしいです。
『上房郡史』に載っている養蚕のデータによると、明治44年時、北房は上房郡の中でもずば抜けた生産数を誇っていたようです。
よかったら、他の話もまとめたレポートを載せておきますので、読んでみてください。
上水田の方で養蚕の指導員をしていたという方のお宅に伺い指導員のお仕事や蚕の飼い方、当時の養蚕についてお話を聞いてきました。
講座がおもしろくなりそうなネタをたくさん仕入れていきました。
上の写真が蚕が作る繭です。
この繭は、昭和12年頃の品評会に出されていた蚕の繭で、この状態で養蚕の指導員は中に入っているのがオスかメスか判別できるそうです!
【蚕って何?養蚕って何?】
蚕とは蚕蛾(かいこが)のことです。
幼虫からさなぎになる際に作られる繭を茹でで紡ぐことで絹糸を作ることができます。
絹糸を量産するために、蚕を家畜として飼うことを「養蚕」といいます。多くは農家が兼業で、春・夏・秋・晩秋の年4回ほど行われていました。
幼虫は生まれてから4回の脱皮をし、繭を作り始めます。養蚕家は卵からは仕入れず、2回目の脱皮が終わった後から仕入れ、繭を回収(収繭)して出荷するまでをしていました。
養蚕はかつて日本の一大産業でもありました。
【養蚕の歴史】
蚕は人間が糸をとるために、長い年数をかけて丈夫で長い糸を出すように改良されていきました。
養蚕の起源は中国で、日本には弥生時代に稲作と一緒に秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えました。
しかし、日本で養蚕業が各地で盛んにされるようになったのは江戸時代からです。
また、養蚕国としてアメリカに絹をたくさん輸出できるようになったのは明治以降でした。
そして、養蚕業が特に盛んだった時期は大正~昭和15年だといわれています。
――――ここからが聞いてきた話――――
【蚕の飼い方】
蚕は文字の通り、天候や環境に非常に左右される虫です。
幼虫は胃袋以外の臓器はないため、曰く「桑の葉(蚕の唯一のエサ)を与えて、温度管理をちゃんとすればいいから、飼うだけなら誰にでもできる」ということです。
寒くても、暑くても蚕は生きていくことができず、常に温度を20℃以上30℃以下に保たなくてはいけません。湿度も重要で、80~90%を維持する必要がありました。
そのため、寒い日には練炭を炊たいていました。練炭は人間にも蚕にも有毒なガスを発生させるため、換気のしやすい環境で飼う必要がありました。そして、暑い日は桑の葉を蚕に覆いかぶせるようにたくさん与えることで日陰を作ってやることでしのいでいました。現在飼うとしたら、エアコンで微調整すればいいですね。
上の写真は養蚕用の乾湿計。これを使って蚕の成長具合に合わせた温度管理をしていた。
蚕は2000年以上家畜として改良され続けていたので、人間にお世話をされないと生きていくことはできません。
お腹が減ってもろくに歩けず、人間がえさを与えるまで動きません。
野生に返そうと野外の桑の木に蚕を放しても生きていくことができません。
蛾の姿になっても、羽の大きさのわりに腹が大きく、重すぎるためにうまく飛ぶことができません。
羽を動かす筋力もなくなってしまっています。
先祖代々からの家畜経験から、野外を飛んで仲間やエサ、卵を産む場所を探す必要がなくなっていったための進化なのです。 そのため、丁重に扱っていかなければなりません。
上の写真が桑の木。生まれてすぐの頃はこのくらいの新芽を食べさせる。
【意外な注意すべきこと】
麹菌に弱いため、脱皮を2回経験するまではみそ汁や醤油、甘酒などを食べて接してはだめ。死にます。
たばこのニコチンで酔ってしまうため、たばこを吸ってから接してはだめ。死にます。
水分量が80%以上の新鮮な桑の葉をでなければ食べない。
脱皮をする前には、体を持ち上げて桑を食べない日がある(眠っていて、4回ある)
【養蚕指導員の仕事について】
北房中や高梁の方の養蚕家のところに行き、どのように飼えばいいかの指導をして回っていたそうです。
夜中、大八車を引いて農家から繭を仕入れて、糸繰する人におろしていました。
繭の取引は信用で成り立っており、酒を交わして信用を構築していました。毎日のようにいろんな養蚕家の人とお酒を飲んでいたそうです。
しかし、高く繭を飼ってくれるところが養蚕家にとっては正義だから、よく浮気をされていたらしいです。
北房では昭和12年が養蚕のピークだったようです。
そのころ約200件弱の家が養蚕をしていたらしいです。
『上房郡史』に載っている養蚕のデータによると、明治44年時、北房は上房郡の中でもずば抜けた生産数を誇っていたようです。
よかったら、他の話もまとめたレポートを載せておきますので、読んでみてください。