社地域振興協議会

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畝の中世集落跡

湧水が多く、かつての有力農民層が住んでいた場所
 
畝の中世集落跡 ―うねのちゅうせいしゅうらくあと―
 現在、山の上の方にあるこの場所に住む人々はなく、不便な場所です。しかし、中世から江戸時代まで、蒜山や湯原温泉方面など北側から社地区に入ってくるルートとして重要な「於々路(おおろ)」と呼ばれる往還道があり、その途中に「畝」という集落があったことがわかっています。

 水を確保しにくいなどの理由から、一般的に山の上で水田を耕作することは難しいものです。しかし、この地域は湧水が多く、大変強い湿田があります。湿田自体は現在の農業では耕作しづらいものとされていますが、水不足が大変な被害につながる中世の農業において湿田は重要でした。また、飲料水も容易に確保できた「畝」のあたりは、農民の住居や領主の田んぼがある生産力の高い場所でした。

 「大神の祠」と呼ばれる場所付近には、室町中期から後期にかけての石造物残欠が大量に残されています。形状、規模から判断して有力農民層のものであり、かつての居住の痕跡が明らかに見られます。

 中世農民の集落がどういう立地にあったのかを彷彿とさせる意味で、歴史的にきわめて重要な場所だと考えられます。
 

 

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